早稲田大学講師・元上智大学教授/田島泰彦氏
- 雑誌ジャーナリズムの世界から見て
新聞の役割は、日々起こっていることをいち早く伝えることにあるといえるが、雑誌はやや違う。速報性だけではなく、とりわけ論争的な問題について、掘り下げ・えぐり出す事実の伝達とともに、それを踏まえて一定のイデオロギーやスタンスから「論」を立てる言論の活動が大切であり、市民社会に「論」が多様多彩に展開されることが大事だ。だから、媒体を少なくする方向であってはならない。議論を起こすための提起を積極的に広げて豊かにしなければならない。それは、事実を提示し、雑誌ジャーナリズムの重大な使命といってもいいだろう。
- 『新潮45』休刊の意味すること
市民社会のなかで雑誌は何をしなければならないのか、今回の問題をどうとらえるべきなのか、と考えることが大事だ。休刊により多様であるべき言論の場が少なくなるということは、読者にとっても、作家・表現者にとっても大事な機会と回路が奪われることを意味し、市民社会にとっていいことではない。
販売部数の減少からやむを得ずということでは必ずしもなく、ある種の社会的な制裁や世間からの非難が原因で休刊に至るのは良くない。それは、「とんでもない雑誌だからけしからん」という話ではない。また「右派的傾向の本や雑誌がなくなればいい」という議論もすべきではないだろう。右派や保守系の雑誌も含めて、全体的に雑誌ジャーナリズムがどこを大事にするかというと、市民社会のなかで言論をより自由闊達にし、多様で豊かなものに鍛えていく方向のはずだ。
- 今回の問題から学ぶべき点
第一点目は、編集の自律と自立は基本であり大切なことであるが、(新潮社の)他の社員の意見を大事にする視点も欠かせない。もちろん、編集の自由と独立の観点からは、経営から「ああしろ、こうしろ」とやってはいけない。雑誌の中身に関して経営が口を出してはいけない。こうしたことは、編集を支える前提条件だ。もう一点は、一緒に雑誌の中身をつくってきた作家・書き手の考えも大事にすることである。さらに付け加えると、読者の意向や意思も活かす努力も欠かせない。強靭な編集の自自由を創るには、こうした諸点を大事にすべきだ。
- 休刊は責任放棄
今回の問題の発端となったLGBTの問題など、批判的なものであれ同調的なものであれ、何が問題であったのかをやらずに打ち切った(休刊)新潮社の「決定」は問題だ。とりわけ、今回のような論争的な問題の場合、背後の政治性も見据えてしっかりつかむための事実の掘り下げや多様な「論」の提示が必要であったと考える。