最近、出版の役割という言葉が頭をよぎる。きっかけは東京五輪・パラリンピックである。メディアの取り上げ方、向かい合い方に強いひっかかりを覚えたのだ。筆者が大事にしている言葉がある。「『論』を立てる」。元上智大学田島泰彦教授の言葉である。
「雑誌は掘り下げ・えぐり出す事実の伝達とともに、それを踏まえて一定の『論』を立てる言論の活動が大切。議論を起こすための提起を積極的に広げて豊かにしなければならない」(「市民社会における雑誌ジャーナリズムの役割」)と『新潮45』問題が起きたときに寄せていただいた一文である。雑誌を出版におきかえても成立する。
「論」を立てる、この深みは何だろう。テレビや新聞がもつ速報性ではなく、時間をかけて理非曲直を正す太さといってもいいかもしれない。生起した事実を取材する作業は報道する者および表現者にとって絶対的出発点であることは論を俟たない。取材したものを、縦横に割って、その一つひとつを掘り下げていき、どん詰まりのところから再構成していくのが出版の役割であり強みなのではないだろうか。そう考える。
コロナパンデミック下での東京五輪・パラリンピック開催の是非が問題になって閉会以降の今日までのすべての世論、開催強行推進派の言動、開催は狂気の沙汰論、科学的知見等々、開催をめぐっての論争の一切合財の過程と結果にかんする「論」を〈出版〉が展開すべきではないだろうか。同時に、使われた言葉の検証も必要である。「安心安全」「国民のため」「一生懸命」「責任」「感動」etc.枚挙に暇はない。
過日NHKスペシャル「混迷ミャンマー 軍弾圧の闇に迫る」を観た…。苦しかった。カメラは映像で「論」を立てていた。そこにペン(出版)の役割が見えないか。
(出版研究室室長・平川修一/『出版労連』2021年10月1日‐1591号より)