プーチン・ロシアのウクライナへの軍事作戦という名の侵攻=侵略戦争の遂行、領土占領を目的とした軍事侵略から丸二か月が経ち泥沼化しつつある。侵攻直後からこの事態を全世界のメディアはこぞって非難したし、今なおプーチンの犯罪性を追及しつつ報道を続けている。「プーチン一人がいなくなれば!」の声は小さくない。
そんな「ロシア=悪vsウクライナ=善」の〝絶対的構図〟なかで、2人のジャーナリストによる少し変わった主張を目にした。一つは3月29日付『連合通信』の東海林智氏の「大国に翻弄される戦争の現場」という記事である。もう一つは4月15日付東京新聞夕刊の「本音のコラム」に「国家は嘘をつく」というタイトルの一文を寄せた北丸雄二氏の文章である。いずれも報道のあり方について出版人として考えさせられる内容である。
東海林氏は「残酷な戦争の実相を前に『反戦』の機運が盛り上がる…だが、一方を絶対悪と決めてかかる風潮もとても気になるのだ」と書いている。続けて「ロシアを許すものではないと記しておく」と前置きしたうえで、「こうして、当然のことを書かないと、まともに話も聞いてもらえない、議論にすらならない雰囲気を感じる」とまで書いている。氏の豊富な取材からの肌感覚であろう。
さらに氏は、25年前の旧ユーゴスラビア内戦の取材時を想起しながら続ける。「セルビアが〝悪〟、独立して西側に加わりたいクロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナが〝善〟の構図…背景に米国のPR会社の関与があった」と。プーチンを徹底的に批判した後で、「善悪二分論での理解は危険だ…戦争は個人の尊厳を否定することで維持される」と大国に翻弄される戦争の悲惨さを撃つ。
もう一人北丸氏は、或るテレビ番組を観てのコメントとして「戦闘の一面は国家間の宣伝戦…ウクライナだってメディアセンターを設けて外国メディアを味方につけようとしています。国家とはそういうもの」。さらに「国家はまた、多くの人に一時的に嘘を証言するようにも、一部の人に長く嘘をつくようにも仕組むことができます」と。ジャーナリストの矜持にかけて、ジャーナリズムの原理として「個々のジャーナリストに向け、多くの人に齟齬なく嘘を証言させることはできない」。ジャーナリズムが間違うのは「国家と一体の時だけ」と言い切っている。
出版の役割は、新聞やテレビの持つ速報性ではなく「論」を立てることである。プーチンの戦争においてテレビで流される戦闘シーンは圧倒的にロシア軍のそれである。ネットや海外メディアではウクライナ軍のシーンも結構報道されているらしいが…。ではなぜ日本でのウクライナに関する映像の多くは、ロシア軍に破壊され瓦礫と化した街や途方に暮れる市民の姿ばかりなのだろう…。ここに秘密はないのだろうか? 表現の自由を駆使して、今回のプーチンの戦争の本質を射抜く出版物があらわれることを期待したい。