今まで4回にわたり、検定での提出文書の増加、指導書の多様化・複雑化、営業への規制強化と宣伝媒体物の増大という点から増え続ける教科書編集の仕事を見てきました。
その原因は、一つには2回目で説明したような、1990年代以降の度重なる検定制度の「改正」や規則・運用の変更に伴う文書作成作業の増加です。特に検定提出時の「添付書類」の増加は、教科書の正確性に対する社会的な批判に対して、さらに「編修趣意書」の中の「教育基本法の教育目標との対照表」や「発展的な学習内容の一覧表」などに見られるような教科書内容への政治的な批判に対しその都度対応した結果といえます。この流れは、検定制度がこのまま続くのであれば、残念ながら止まることはないでしょう。
しかし、教科書に対し「検定」という統制を行っている国は先進国ではほとんどありません。まして小中高校の総ての教科で行っているのは日本だけです。また4回目でふれたように、「採択」の面でも統制があります。このような検定・採択・価格といった統制がある国は他になく、それも多少の変更はあったとはいえ1960年代から60年間も基本的にほぼ同じ制度が続いています。「ガラパゴス化」した制度といえるではないでしょうか。この間制度の見直し・変更の議論がなかった訳ではありません。むしろ家永教科書裁判が行われていた1990年代の初め頃までは、教育関係者やマスコミなどを中心に問題意識は共有されていました。1996年には自民党でも高校や小中の一部教科での検定廃止が選挙公約として検討されたことがありましたし、2006年頃まではその動きが続いていました*1。残念ながら、二度にわたる安倍政権の下でこのような議論が政府や政党間はもとより社会的にも姿を消してしまいました。
一方で「教育改革」の目玉は、デジタル化とその象徴である「デジタル教科書」に移っています。しかしこの流れは、ある意味で現在の教科書への統制と矛盾したものであるといえます。検定についていえば、教科書にリンクされた様々なコンテンツの内容まで行うのは現在の体制では不可能です。そのため検定は紙の教科書のみ対象に行うことになりました。学校教育法で「デジタル教科書」は内容的には紙の教科書と同一のものとされ、「学習者用・指導用デジタル教科書」は法的には教材となり、これらを検定し採択や価格を統制する根拠はなくなりました。そして3回目でも扱ったように、現在教育現場で求められているのはまさにこのような多様な(そして今後はデジタル化された)教材なのです。
教育と教育用教材のデジタル化では、今後ますます時間的な即応性が求められてくると思われます。なぜならデジタルコンテンツは日々更新可能なのですから。「1年に1回訂正申請を出して教科書を修正し指導書や関連教材の内容を見直す」という仕事は「教科書」編集の中心ではなくなるでしょう。また内容だけでなくPCのOSや関連ソフト、プラットフォームのバージョン更新や変更などに伴う機械的な作業も膨大なものになるはずです。今の制度のままでは早晩限界が来て検定自体が意味を失うのは間違いありません。一方デジタル化の仕掛け人である経済界では、教科書の発行者資格要件や採択地区制度などを見直し、一般の企業が参入可能な形に教科書制度を根底から改変しようという動きもあります*2。制度の全面的な見直しが迫られているのです。私たちの側も従来のような制度の漸進的改革ではなく、抜本的な制度改正を検討する時期になったと考えます。
*1:2005年総選挙の自民党マニフェストの中では「高校検定の必要性の有無の検討」があり、また2006年の朝日及び日本経済新聞の社説でも高校検定廃止が主張されている。
*2:2018年日本経団連の提言「Society5.0-ともに創造する未来-」など。