どうなる国語教育、どう考えたらいい国語教育

ここへきて、政府と経団連が教育に大いに口出しをしている。とりわけ教科書に関してそれは顕著だ。日本経済新聞(11/23付)は「デジタル活用の能力を備えた小中高校の教員育成に乗り出す」とあり、「(20)24年度には(中略)デジタル教科書の全国での導入を目指す」と一面で扱っている。いわゆる教育のデジタル化の問題を考えていたら、ふと今夏の或る記事を思い出した。それは、8月10日のDIAMOND onlineの記事、「『本が読めない人』を育てる日本、2022年度から始まる衝撃の国語教育」である。

学校教育になくてはならないのが教科書という名の書籍である。しかし教科書は制作過程、流通過程などすべてにおいて一般の書籍とは大きく違う。制作過程でいえば、発行する出版社の思い・考えで「勝手に」作ることができない。文部科学省(以下、文科省)が示す「学習指導要領」に沿って作らなければ教科書として世の中に出ることはできない。

上に述べたDIAMOND onlineの記事によれば、高等学校の国語教育が「実学重視」の名のもと、2022年度から教科書から文学作品が減り、実用文(例えば契約書や諸規約、広報誌の文章)を多く取り上げるものになるというのだ。本当にそんなことがあるのか、文科省は何を考えてそうするのか等々気になったので、まさに今、2022年度用の高校国語教科書を作っている最中の編集者に取材した。

記事には次のような展開がある。「進学校の生徒たちは…読解力を身につけているため、実用文の勉強などあらためてやる必要はない…自分自身の趣味あるいは学習として小説も評論も積極的に読むだろう」と書いたうえで「一方で、もともと本を読まず、読解力の乏しい生徒たちは、国語の授業で実用文の読み方を学ぶようになる…今後は文学作品に触れることがほとんどない生徒たちが大量に出てくることが予想される」とある。そして「これにより、文学や評論に親しむ教養人と実用文しか読まない非教養人の二極化が進むに違いない」と。

現役の編集者からは「『高等学校学習指導要領解説 国語編』を読んでおいてください」と言われた(ここでやっと冒頭の一文とつながるのである)。

そこには「高等学校の国語教育においては、教材の読み取りが指導の中心になる①ことが多く、国語による主体的な表現等が重視された授業が十分行われていないこと、話合いや論述などの『話すこと・聞くこと』、『書くこと』の領域の学習②が十分に行われていない」と書かれている。先の編集者に教えてもらったところによると、①は文学作品が多いということを言っており、②は「主体的な言語活動」というそうで、「自分の考えを根拠に基づいて的確に表現する」力を身につけさせることを文科省は目的としているそうだ。

編集者はこっそり教えてくれた。「記事に書いてあるように、進学校と非進学校では明らかに学力の差がある。そういう意味では今回の指導要領の改訂の狙いは的外れとは言えないのではないか。実は教科書編集者といっても進学校用担当と非進学校担当では作るものが違い一括りにできないんだ。非進学校用は実用文を多く載せるものとなるだろうが、進学校用は従来のものとそれほど変わらないものになるのではなか」と話してくれた。

過去、教育改革という名で、多くのことが変えられてきたことを想起し注目していきたい。そして、冒頭引用した教育のデジタル化に関しては、教科書のデジタル化に焦点を当てて注視していきたい。