第一学習社「現代の国語」検定問題を考える(2) 国が言葉を縛るとき

前回、第一学習社「現代国語」教科書の検定について、「文学的な文章」を扱わないとした新学習指導要領そのものの誤りと教育現場の要求との矛盾、そしてその間での教科書のあり方・役割を言論・表現・出版の自由という観点から問い直す必要があると述べた。今回はこのことについて考えてみたい。

新学習指導要領では、高校国語科には必修科目として「現代の国語」と「言語文化」、選択科目として「論理国語」「文学国語」「国語表現」が置かれている。この科目編成に、すでに新学習指導要領のおかしさが表れている。つまり取り扱う対象が「論理的な文章や実用的な文章」(学習指導要領解説)と「文学的な文章」(同前)とに分けられ、相互に対立し排除し合う関係になっているのである。論理性のない文学などありうるのか。逆に「論理的な文章や実用的な文章」には文学性はないのか。教科書編集者の名誉のために述べておくが、いずれの科目の教科書でも、掲載作品の質は概ね高いと言える。問題は、学習指導要領と検定基準が「内容の取扱い」として、それらの作品を特定の方向、すなわち「主体的・対話的で深い学び」でのみ扱えとしていることである。

実は新学習指導要領と検定基準では、全教科がこの方向で統一されている。その背後にあるのは、学力を「PISA型」に転換させようとする経済界の要求だ。PISAとは、OECDによる国際的な学習到達度調査である。そのために「学力」は国際比較が可能な形に標準化する必要があることになる。当然ながら教科書もこれに巻き込まれる。

それだけではない。今年1月7日に公表された、デジタル庁が主導して作成した「教育データ利活用ロードマップ」は、子ども一人ひとりの学習履歴などの個人情報を国が主導して収集し、海外のグローバルIT企業をはじめとする民間企業が「利活用」できるようにしようとしている。

詳細はここでは割愛するが、このことは国が言語のあり方を教育と教科書を通じて統制することに直結している。近代日本語、もしくは共通語の成立にあたって、教育と教科書が暴力性も伴って果たした役割は大きい。井上ひさしは戯曲『國語元年』で、「全国統一話し言葉」の制定を命ぜられた主人公の文部省の役人・南郷清之輔にこう語らせている。「全国統一話し言葉がノーては、兵隊やんは突撃ひとつできんチューことになる」(新潮文庫版p.266)。共通語の制定目的には「戦争する国」づくりがあったというのである。1872年の学制制定から150年を経ても、国が自らの目的のために言語を統制するという点で、今回の国語教科書検定問題とつながっていないだろうか。ところで清之輔の言葉は、学習指導要領の虚偽を暴く、論理性と文学性の統一の見事な例だと筆者には思えるのだが、いかがだろうか。

(吉田典裕/出版労連・教科書対策部事務局長)