対価を払って本を買うのは? 山村で考える(出版研究室から[50])

コロナ禍で社会構造が変わり、生活も価値観も変化している。筆者の住む長野県の山麓でもコロナを避けた人たちがリモートワークをしている。人口8,000人の原村に書店はない。が、図書館は充実していて、人口1人あたりの貸出率は県内でも常に上位(20年3位14,4冊/県平均5,7冊)である。

外出を控えると読書と新聞に目を通す時間が増える。しかし図書購入費は少なくなった。書店のかわりに図書館の利用が多くなったためである。あれこれと調べるためにPCを開く機会も増えている。

テレビを見る時間も少し増えた。どの局も似たような内容なので、漫然と見ていても繰り返しで印象に残る。これが刷り込みだと実感する。9月まではコロナに関する情報の氾濫と無為無策に対する無批判、オリンピック、パラリンピックのメダル獲得数など。10月に入ると自公政権の負の遺産を忘れさせる総裁選の過熱報道などで大量の情報はインパクトがある。かつ、これらの情報は莫大な経費が掛かっているにもかかわらず「無料」で見聞きしている。この仕組みはナチスの手口を見るように、気づいたら「ただより高い」ものになっていたという歴史を想起させる。

雑誌、書籍や新聞は自ら選び購入している。スマホで世界中の情報が常に手元に入る時代に対価を払って入手する理由、その目的と価値はどこにあるのか。ふと自問自答する。学術会議問題、教科書問題、デジタル監視など、岸田内閣になっても心配の種は尽きない。この流れを食い止める力は何か。連日のコロナ情報がすでに嘘のようになっているなかで、活字は残る。だから本を買い、新聞も読む。気が付くと本が増えている。人が本をつくり、本が人をつくる。ますます出版物の力が問われる時代になっている。

(出版研究室・橘田源二/『出版労連』2021年11月1日‐1592号より)