「自粛」を「要請」するとは? 「自」らの意志で静かにつつしむことではないのか?!

長年出版の仕事をしていると、好むと好まざるとにかかわらず言葉の遣い方・使われ方には敏感になるものだ。今回も「出版業界」で起きた特定の問題を取り上げるわけではないが、言葉を生業としているものとして、コロナ禍での見過ごせない言葉の遣い方・遣われ方について考えてみたい。

 

7月20日付の本コラムで、「要請に『従う』って、ナニ?」と題して問題提起した。言葉の遣い方のおかしさにとどまらず、「行政の要請に対して従うのではなく…批判的な思考に立って対応していきたいものである」と一歩踏み込んで警鐘を鳴らしたものであった。今回前回を引き継ぎつつも言葉の遣い方そのものの問題にこだわってみたい。

 

新型コロナウイルス感染者の拡大を受けて、再度登場し始めたのが「自粛」である。「要請」と双璧の遣われ方用語といっていい。お気づきのことと思うが、47の緊急事態宣言発令後から「自粛を要請する」という日本語が音声でも活字でも溢れ返った。言葉は生き物なので時代とともに、あるいは突然変異的に妙な言い回しが市民権を得て真ん中に座ること控えるように」という意味で「自粛を促す」という遣い方はあっても、強制力を持たせるニュアンスの強い「要請」と組み合わせる遣い方はおかしい。しかし、これを用いる方々は、知らないのではなくあえて遣うことによって別の効果を狙っているのではないかと邪推しくなるのは筆者の天邪鬼のせいだろうか…。

 

政府は、あらゆる手段を講じて感染拡大を防止することと、コロナ禍で困窮にあえぐ多くの国民の命を守ることに専念すべき時だ。しかし、それは政治力の強権発動なのだろうか。「要請では弱い」という声を背景に、「自粛呼びかけ」から「自粛要請」という言葉がまたまた暴れ出している