「私は本屋が好きでした」永江朗・著(2019年/太郎次郎社エディタス)

あらゆる製造業者は、製造物責任法に基づき、その商品が安全に使用されるよう、生産者としての責任が課されている。では、「物」ではなく「思想」を流通させ、その結果世の中になんらかの良くない影響がでた場合、製造者は責任を問われるのだろうか?

いわいる「ヘイト本」という類の出版物がある。一概に定義するのは難しいのだが、科学的・史実的な根拠がなく、特定の民族をルーツとする人々を揶揄したり、人格を徹底的に否定するような内容の図書だ。

本屋にいけば、それっぽい書籍は、確かに置いてある。

『私は本屋が好きでした』の著者・永江朗氏は、この類の本を受け入れることができず、とうとう街中の本屋で書籍は購入しない、と本書のなかで宣言している。

詳しくは、本書を実際にお読みいただき、その心意気を知っていただきたいのだが、そこまで繊細(?)ではない私は、それら本を横目にしつつ、本屋にはいく。興味のない本は、買わないだけだ。

その時代の人々が作り出す「出版」は、生き物だから、その時代に合ったかたちで変遷する。だから、「ヘイト本」が人々によく読まれ、影響力を発揮しているのは、憎悪が人々の心なかに充満し、受け入れる素地が出来ている、ということではないか? そしてそれらを本やテレビやネットが深く考えもせず面白おかしく取り上げ、世の中に憎悪を増幅させ広めていっている。

著者や版元にしてみれば、「良識の範囲で」とか「一線を越えないように」等は横に置き、とりあえず仕事として目の前の本を作っているのかもしれない。そして、その“良心的な配慮”は、集団で行われる顔の見えない活動ではますます発揮されず、ごくふつうの「いい人」である編集者や書店員が、とんでもない内容の本や雑誌をあたりまえに読者に手渡している。

そして、それらは確実に特定の人の心を傷つけている。

以下述べるのはあくまでも、私の考えだ。思想に問題があったり、あきらかに事実と反する内容の図書は、それらを扱う販売業者(取次・書店)が引き受けないという方法が、流通させない有効な方法としてある。流通過程で特定図書を弾くことは「検閲にあたる」と、禁忌すべきとの考えもあるかもしれないが、これら販売業者や書店は、あくまでも一般企業である。国や地方自治体など公的な組織が書物を検閲することではない。これだけ多様な流通が発達した現在、メーカーは中間業者を介せず商品を販売することも難しくない。出版物の流通が縮小傾向にある現在、書店や取次可能であれば「売りたい本」「売りたくない本」を各々の責任で判断してもいいのではないか?永江氏の考える「ヘイト本を流布させない方法」も、本書中にでてくる。そこには、多種多様な本を、大規模に流通させる委託・再版という出版の仕組みそのものが、問題の根っこにあることも証明している。

しかし思えば、ヘイト本に限らず、多様な本が本屋には並んでいるものだ。あたりまえのように、書籍のタイトルに「バカ」だ「アホ」だのと、つけるようになったのは、いつごろからだろうか?(私の記憶では、養老孟司氏の『バカの壁』が一番古い)。かつては、教養書中心の版元では、タイトルに使う文言にはそれなりにふさわしい単語を選んでいたように思う。以前に比べて本が売れなくなったからなのか、マンネリを打破するためなのだろうか、タイトルや装丁に工夫を凝らし、読者にアピールし近年ではますます過激になっている。

何人の表現活動は自由であるべきで、それは保障されるべきものである。しかし、その権利は他の利益をできる限り損なわず実効されるべきである。共調・バランスを欠くようになると、全体にひずみがでてくる。それらの方法を、読者も含めて、出版に携わるすべての人が考えてみる必要があるのではないだろうか。(佐倉エリカ)