東京オリ・パラでの海外メディアの行動制限と比例原則②

海外のメディアが様々な目的を持って、世界的なパンデミック下で行われる東京オリ・パラを取材するのは、ジャーナリズムの立場からは当然のことである。つまり、競技の様子を報道するだけでなく、同時進行する日本国内の様々な様子(コロナ禍での貧困など経済格差の実態、海外からの滞在者に対する差別の問題、教育現場の実態、etc.)を取材して報道することは、自由権規約第19条の「意見及び表現の自由」そのものであり、その報道が社会にもたらす利益は多大なものと言える。これを、東京オリ・パラを行うために制限するのは、民主主義を標榜する国家の行為ではない。民主主義国家にとって「意見及び表現の自由」を制限することは、国の歴史に残る大きな損失以外の何物でもない。
国が、東京オリ・パラを開催するために、コロナウイルスの感染拡大や重症化などを抑制するための措置として、GPSまで使って海外メディアに対する行動制限を行うことと、海外メディアが自由権規約の「意見及び表現の自由」に基づいて報道することを「比例原則」に照らして考えた時に、社会的な利益が大きいのはどちらなのか、それを議論し深めることが大事ではないだろうか。もっと踏み込んで言えば、感染拡大対策として海外メディアに対してGPSを使った行動制限をしなければならないほどたいへんな状況を想定しているのならば、「比例原則」に照らした場合、そもそも東京オリ・パラをやることに社会的利益はあるのか、ということになる。つまり、民主主義国家がとるべき比例原則に適合する政策(制限を含む)は何かという立場で考えるのならば、それは、東京オリ・パラを中止すること以外にありえないのではないか。
今回のコロナ禍での議論で、

  • 感染を抑えるためにロックダウンが効果的、
  • しかし日本では法律上ハードルが高い、
  • だから憲法に緊急事態条項が必要、

などという意見が聞こえていた。たとえば現政権が、様々な情報を積極的に開示し、科学的な見地に立った専門家の提言を積極的に受け止め、具体的な事実を広範に集めて、客観的な視点から法律に則した判断をするという実績を積み上げていたならば、また、日本国憲法の1条1条が民主国家の統治機構の姿として、私たちの日常に投影されるような、そのような日々が積み重ねられてきていたならば、おそらく、コロナ禍での行動制限について、「比例原則」を起点に、議論をしたり判断をしたりすることができたのではないだろうか。
権利制限は極力避けるべきだが、それでも権利と権利の衝突が避けられないのならば、一方もしくは双方の権利が制限されることは否定できない。しかしその場合には、「自由権規約」に対する「一般的意見」に示されているような、「比例原則に適合する」ものであることが重要である。このことを強く意識したいと思う。